芦刈山

形式:舁山

巡行順番:4番目(山三番)令和5年

稚児:―

御神体:日下左右衛門

主管:芦刈山保存会

住所:京都市下京区綾小路通西洞院西入ル 芦刈山町

公式サイト:京都祇園祭 – 芦刈山 | 公益財団法人芦刈山保存会 (ashikariyama.jp)

謡曲「芦刈」に基づく。故あって妻と離れて難波の浦で芦を刈る老翁が、やがて妻との再会をはたす夫婦和合の姿をあらわす。

御神体(人形)の旧御頭は天文6年(1537)七条仏師運慶の流れをくむ康運作。

天正17年(1589)銘をもつ重要文化財指定の「綾地締切蝶牡丹文片身替小袖」は山鉾最古の衣装。

現在の前懸と見送は山口華楊原画の段通「凝視」(1986)と綴織「鶴図」(1985)、胴懸は尾形光琳原画の「燕子花図」(1994)。

欄縁の彫金飛雁の錺金具は明治36年(1903)川辺華挙の下絵で藤原観教作。

旧胴懸の「鶴亀蜀紅文絲錦裂」(江戸時代)をはじめ、「獅子蜀紅文繻珍小袖」(江戸時代)、古い見送など貴重な染織品を多く残している。

芦刈山 | 山鉾について | 公益財団法人祇園祭山鉾連合会 (gionmatsuri.or.jp)

芦刈山公式サイトより

芦刈山の由来

芦刈山の起源

応仁の乱(1467~1477)前
1100年以上の歴史がある祇園御霊会で、山や鉾の記録が現れるのが700年前の室町時代ごろからです。「祇園社記」の「応仁の乱前分」によると、「すみよし山 綾小路・油小路と西洞院の間」とあり、現在の芦刈山町の位置に「住吉山」という現存しない山があったことが分かります。また「あしかり山 四条猪熊」、「あしかり山 錦・烏丸と室町間」「あしかり山 錦小路東洞院」との記述もあり、現在は山の建たない3箇所から「あしかり山」という山が出ていたと考えられます。同じく「応仁の乱後再興分」には「綾小路、西洞院と油小路の間、あしかり山手かき」とあり、現在の芦刈山は少なくとも明応5年(1496)の山鉾再興の時に創建されたと推測されます。その後、幾多の火災や戦乱による被害をくぐり抜け、焼失と再建を繰り返しながら今日に至っています。

応仁の乱後の再興

「応仁の乱後再興」のくだりには「綾小路、西洞院と油小路の間 あしかり山手かき」とあり、現在の芦刈山は少なくとも明応5年(1496)の山鉾再興の時に創建されたと推測されます。また最初の鬮取り式が行われたのが明応9年(1500)で、「二十三番 あしかり山 綾小路と西洞院の間」とあり、37基で復興した山鉾の内、さきの祭り27基の第23番目であったことが分かります。

謡曲「芦刈」

謡曲「芦刈」は平安時代の歌物語「大和物語」に基づくといわれています。しかし「大和物語」では乳母として都にあがった妻は貴人の後妻となり、芦刈人足となった夫とつかのまの再会を果たして着物を与えますが、すでに他人の妻の身、男を哀れみながらも都に帰ってしまいます。ほかに芦刈説話を扱った古典もいずれも悲しい結末で、能楽「芦刈」だけがハッピーエンドなのです。
謡曲「芦刈」は一般に男物狂(狂乱物)と呼ばれ、二百番近い能の中で唯一、夫婦の心の触れ合いを賛美した演目で、夫婦の愛情を肯定した異色作です。しかし芦刈山の御神体が老翁の姿であるのに対して、謡曲の日下左衛門は「若き男」と書かれています。また謡曲の季節は春ですが、芦刈山の趣向は秋の風情を表していて、「芦刈」は秋の季語であるといった違いもあります。

その他のトピックス

貧しい夫婦を題材とした世阿弥の謡曲「芦刈」は昔は人気の題目であり、応仁の乱以前には「あしかり山」という山が三つも存在していた。

御神体の衣装は織田信長から拝領したと伝わる小袖(山鉾町に現存する最古の装束)。

宵山で巫女が登場するのは芦刈山のみ。