神輿渡御
7月17日・24日
八坂神社・御旅所
神幸祭・還幸祭
7月17日に八坂神社の御神霊が遷された三基の神輿が、四条寺町の御旅所まで渡御します。
18時頃、ご神宝奉持の行列を先頭に発輿。
24日には神輿が八坂神社へと戻ります。
22時頃から順次、神社へ到着した神輿は、舞殿を右回りに3周し、神輿を舞殿に上げ、御神霊を遷します。
【祇園祭神輿渡御 基礎知識】
神輿渡御は神幸祭と還幸祭に分かれます。
神幸祭では神社の祭神の神霊が遷された神輿が神社から氏子地区などにある御旅所に渡御し、還幸祭までの一定期間神輿が泰安されます。
還幸祭では御旅所から神輿が神社に戻ります。
ちなみに御旅所は神社の祭礼(神輿渡御)の際、神霊(神霊を遷した神輿)を泰安する場所で、氏子地区などに設けられています。
京都市内の神社には御旅所がある神社が多くあります。
ただ御旅所がない神社もあったりし、神輿渡御の内、神幸祭・還幸祭のいずれしか行わないこともあります。
京都市内では神幸祭のことを「おいで」、還幸祭のことを「おかえり」と言ったりすることもあります。
「おいで」・「おかえり」は神輿を泰安する御旅所が氏子地区などにあることに由来するとも言われています。
神輿渡御は神社にとって重要な祭礼の際に行われ、本来は毎年同じ日に行うのが原則です。
ただ神輿渡御には神輿の担ぎ手である輿丁(よちょう・舁手(かきて))が大勢必要になることから輿丁が集まりやすい日曜日(祝日・休日)に行われることも多くあります。
なお神輿渡御では神輿以外にも巡行ルートを祓い清める剣鉾(けんぼこ)が先導し、猿田彦・獅子舞・稚児・八乙女・少年鼓笛隊などが一緒に巡行すしたり、別ルートを巡行したりすることもあります。
剣鉾は山鉾の原型になったとも言われています。
【祇園祭神輿渡御 基礎知識】
祇園祭の神輿渡御は平安時代前期の869年(貞観11年)に全国に疫病が流行し、牛頭天王(ごずてんのう・素戔嗚尊(すさのおのみこと))の祟りであるとし、卜部日良麿(うらべのひらまろ)が神泉苑(しんせんえん)に全国の国の数と同じ66本の鉾を立て、悪霊を移して穢れを祓い、薬師如来(やくしにょらい)の化身とされる牛頭天王を祀り、八坂神社に3基の神輿を送り、病魔退散を祈願した祇園御霊会に由来しています。
平安時代中期の970年(天禄元年)以後、祇園祭は毎年行われるようになり、旧暦の6月7日に神輿を迎えて神事を行い、旧暦の6月14日に神輿を送りました。
なお古来から久世駒形稚児が祇園祭神幸祭で巡行する神輿の先導役とされ、久世駒形稚児(くぜこまがたちご)が八坂神社に到着しなければ、神輿は境内から一歩も動かすことができなかったそうです。
久世駒形稚児は現在も神輿渡御(神幸祭(しんこうさい)・還幸祭(かんこうさい))の際には八坂神社の祭神・素戔嗚尊をのせた中御座神輿を先導しています。
なお神輿渡御のルートは神幸祭が八坂神社から氏子地区を回って御旅所に向かい、還幸祭が御旅所から氏子地区・御供社(又旅社)を回って八坂神社に戻ります。
【神輿渡御 基礎知識まとめ】
- 神輿渡御の日程がいつかと言うと神幸祭が7月17日、還幸祭が7月24日です。祇園祭では神輿渡御・山鉾巡行・宵山などの日程は固定されています。
- 神輿渡御のルートは神幸祭と還幸祭で異なります。神幸祭では八坂神社から御旅所に渡御します。還幸祭では御旅所から又旅所を経由し、八坂神社に戻ります。
- 神輿渡御では神幸祭・還幸祭で3基の神輿が渡御するが、3基の神輿が渡御するルートは異なります。また御旅所・八坂神社への到着時間も異なります。
- 神輿渡御では神幸祭前の7月10日・還幸祭後の7月28日に神輿洗が行われます。神輿洗では鴨川(宮川)から汲み上げられた水で中御座神輿が清められます。
【祇園祭神輿渡御・神幸祭 簡単概要】
祇園祭神輿渡御・神幸祭では午前中に山鉾巡行(前祭)で通りなどが祓い清められ、夕方から中御座神輿・東御座神輿・西御座神輿が八坂神社から氏子地区を回り、四条河原町近くにある御旅所(Otabi Kyoto)に向かいます。
ただ祇園祭の神輿渡御ルートは3基の神輿で異なっています。
中御座神輿は綾戸国中神社(あやとくなかじんじゃ)の御神体・素戔嗚尊の荒御魂(あらみたま)を象った駒形を胸に掛けた神の化身である久世駒形稚児が先導します。
なお神幸祭に先立って、7月10日に神輿洗が行われ、中御座神輿が代表して鴨川の水で清められています。
【祇園祭神輿渡御・還幸祭 簡単概要】
祇園祭神輿渡御・還幸祭では午前中に山鉾巡行(後祭)で通りなどが祓い清められ、夕方から中御座神輿・東御座神輿・西御座神輿の3基が御旅所(Otabi Kyoto)から氏子地区を回り、京都三条会商店街にある御供社(又旅社)を経由して、八坂神社に戻ります。
ただ祇園祭の神輿渡御ルートは3基の神輿で異なっています。ちなみに御供社は869年(貞観11年)に疫病を鎮める御霊会(ごりょうえ)が行われた神泉苑(しんせんえん)の南端にあります。
なお還幸祭後の7月28日に神輿洗が行われ、中御座神輿が代表して鴨川の水で清められ、その後神輿庫に収納されます。
【祇園祭神輿渡御 簡単概要】
神輿渡御(神幸祭・還幸祭)の神輿には中御座神輿・東御座神輿・西御座神輿の3基があり、中御座神輿には八坂神社の主祭神・素戔嗚尊(すさのおのみこと)、東御座神輿には素戔嗚尊の妻・櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、西御座神輿には素戔嗚尊の8人の子供・八柱御子神(やはしらのみこがみ)の神霊をのせて神輿渡御が行われます。
ちなみに神輿渡御に合わせ、神幸祭の前に八坂神社の本殿から神輿に神霊を移す宵宮祭、還幸祭の後に神輿から本殿に神霊を戻す御神霊遷し(みたまうつし)が行われます。
【中御座神輿(なかござみこし) 祇園祭】
中御座神輿は八坂神社の主祭神・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の神霊をのせます。
中御座神輿は六角形の屋根の上に鳳凰(ほうおう)が飾られ、男神を表す紫色の袈裟懸け(けさがけ)が掛けられます。
なお中御座神輿は重さ約2トンと言われています。
- 素戔嗚尊は父・伊奘諾尊(いざなぎのみこと)と母・伊奘冉尊(いざなみのみこと)の子で、天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟です。素戔嗚尊は出雲で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、救った櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと)と結婚し、出雲の祖神になったとされています。
- 中御座神輿は三若神輿会(さんわかしんよかい)が奉仕し、三若神輿とも言われています。三若神輿会は1690年(元禄3年)頃から祇園祭の神輿渡御に奉仕した三条台若中が起源と言われています。三条台若中は明治時代まで中御座神輿・東御座神輿・西御座神輿の3基の渡御に携わっていたが、現在は中御座神輿を奉仕しています。なお三条台若中はその後三若組を経て、三若神輿会に組織変更されました。ちなみに三若神輿会の会所は祇園祭の起源とされる祇園御霊会が行われた神泉苑や八坂神社御旅所(又旅社)近くにあります。
【東御座神輿(ひがしござみこし) 祇園祭】
東御座神輿は素戔嗚尊の妻・櫛稲田姫命の神霊をのせます。
(神大市比売命(かむおおいちひめのみこと)・佐美良比売命(さみらひめのみこと) も御同座しています。)東御座神輿は四角形の屋根の上に擬宝珠(ぎぼし)が飾られ、赤色の袈裟懸けが掛けらます。
なお東御座神輿は重さ約2トンと言われています。
- 櫛稲田姫命は脚摩乳(あしなずち)と手摩乳(てなずち)夫婦の8番目の末娘です。櫛稲田姫命は7人の姉と同様に八岐大蛇の生け贄になるところを素戔嗚尊に助けられ、妻になりました。ちなみに櫛稲田姫命は素戔嗚尊の神通力により、小さな櫛に変えられたとも言われています。
- 東御座神輿は四若神輿会(しわかしんよかい)が奉仕し、四若神輿とも言われています。四若神輿会は三若(三若神輿会)に変わり、江戸時代末期に木屋町四条近くの高瀬川船頭衆が東御座神輿の渡御に奉仕したのが起源と言われています。明治維新後、船頭衆を手伝っていた東山三条の若松町・若竹町が四若組と称し、その後四若神輿会になったと言われています。
【西御座神輿(にしござみこし) 祇園祭】
西御座神輿は素戔嗚尊の8人の子供・八柱御子神(やはしらのみこがみ)の神霊をのせます。
(稲田宮主須賀之八耳神(いなだのみやぬしすがのやつみみのかみ)も傍御座しています。)西御座神輿は八角形の屋根に鳳凰が飾られ、赤色の袈裟懸けが掛けらます。
西御座神輿は重さ約3.2トンで、担がれる神輿の中で最も重いとも言われています。
- 八柱御子神は八島篠見神(やしまじぬみのかみ)・五十猛神(いたけるのかみ)・大屋比売神(おおやひめのかみ)・抓津比売神(つまつひめのかみ)・大年神(おおとしのかみ)・宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)・大屋毘古神(おおやびこのかみ)・須勢理毘売命(すせりびめのみこと)です。
- 西御座神輿は錦神輿会(にしきみこしかい)が奉仕し、錦神輿とも言われています。錦神輿会は1947年(昭和22年)から西御座神輿の渡御に奉仕しています。西御座神輿はかつて三若(三若神輿会)が奉仕していたが、大正時代に壬生村の壬生組が奉仕するようになりました。しかし壬生組が解散することになり、錦組(錦神輿会)が奉仕することになりました。
三若神輿会(さんわかしんよかい)
祇園祭(7月17日の神幸祭・7月24日の還幸祭)で中御座神輿(なかござみこし)の神輿渡御に奉仕するは三若神輿会(さんわかしんよかい)の起源である三条台若中(さんじょうだいわかじゅう)は室町時代の応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))後から祇園祭(祇園御霊会)の神輿渡御に関わっているとも言われています。
【祇園祭 三若神輿会】
祇園祭では869年(貞観11年)の祇園御霊会以来、神輿渡御が祭礼の重要な行事です。
869年(貞観11年)の祇園御霊会では洛中の男児が神輿を八坂神社(祇園社)から神泉苑に送りました。
970年(天禄元年)から祇園祭が毎年行われるようになり、974年(天延2年)に第64代・円融天皇が神輿を鴨川を渡って平安京を渡御するように勅命したと言われています。
祇園祭の神輿渡御では室町時代の応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))後に三若神輿会(さんわかしんよかい)の起源である三条台若中(さんじょうだいわかじゅう)が奉仕するようになったとも言われています。
それ以前は神輿渡御の際に神輿を担ぐ担ぎ棒・轅(ながえ)を預かる轅町(京都市中京区御倉町)が中心に神輿渡御を行っていたとも言われています。
また1690年(元禄3年)頃から三条台若中が奉仕するようになったとも言われています。
三条台若中(三若組)は明治時代まで中御座神輿(なかござみこし・大政所神輿(おおまんどころみこし))・東御座神輿(ひがしござみこし・少将井神輿(しょうしょういみこし))・西御座神輿(にしござみこし・八王子神輿(はちおうじみこし))の神輿渡御に関わってきました。
江戸時代後期(幕末)頃から東御座神輿の神輿渡御に木屋町四条近くの高瀬川船頭衆が奉仕するようになり、その後船頭衆を手伝っていた東山三条の若松町・若竹町(四若組・四若神輿会)が奉仕するようになりました。
大正時代に西御座神輿の神輿渡御に壬生村の壬生組が奉仕するようになっが、壬生組が解散すると1947年(昭和22年)から錦神輿会が奉仕するようになりました。
三若神輿会はメンバーが約20家族・約40人で、男子の世襲制とも言われています。
三若神輿会にはその下に約10の神輿会があり、全体で輿丁が約800人になるそうです。
三若神輿会は八坂神社から中御座神輿の指揮・運行を委託され、幹事長などがマイクを持って指揮します。
また三若神輿会は約10の神輿会に法被を貸与し、その法被を着なけらば中御座神輿を担ぐことができないそうです。
ちなみに三若神輿会では2011年(平成23年)に神輿を担ぐ轅がひび割れしたりして傷みが著しかったことから長さ約10メートル(重さ約200キロ・縦16センチ・横11センチ)の2本の轅を約半世紀振りに新調しました。
轅には京都市右京区京北町の神吉山で切り出された樹齢約140年のヒノキが使われ、以前よりも多くの輿丁で担げるように約1メートル長くなったそうです。
なお三条台若中会所は1832年(天保3年)に民家を改めて定められ、1862年(文久2年)に改築され、1927年(昭和2年)に現在の会所が建てられました。
●三若神輿会は現在中御座神輿の神輿渡御に奉仕し、中御座神輿は三若神輿とも言われています。中御座神輿は八坂神社の主祭神・素戔嗚尊(すさのおのみこと)の神霊をのせます。中御座神輿は六角形の屋根の上に鳳凰が飾られ、男神を表す紫色の袈裟懸けが掛けられます。中御座神輿は重さ約2トンと言われています。
●四若神輿会は現在東御座神輿の神輿渡御に奉仕し、東御座神輿は四若神輿とも言われています。東御座神輿は素戔嗚尊の妻・櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)の神霊をのせます。東御座神輿は四角形の屋根の上に擬宝珠が飾られ、赤色の袈裟懸けが掛けらます。東御座神輿は重さ約2トンと言われています。
●錦神輿会は現在西御座神輿の神輿渡御に奉仕し、西御座神輿は錦神輿とも言われています。西御座神輿は素戔嗚尊の8人の子供・八柱御子神(やはしらのみこがみ)の神霊をのせます。西御座神輿は八角形の屋根に鳳凰が飾られ、赤色の袈裟懸けが掛けらます。西御座神輿は重さ約3.2トンです。
法被に込められた意味と、お神輿に掛ける輿丁の思い
三若神輿会には、800人ほどの輿丁がいますが、実際にお神輿を担ぐのは一度に50〜60人。担ぎ手の近くには数人の輿丁が控えていて、タイミングを見計らって交替します。
「お神輿の重さは2トン以上、それを50〜60人で担ぐので、肩に掛かる重量は約40kg。本気で担いでいるなら1分ももたないものです。
だから10倍以上の人数が必要になるのです。
昔に比べて、今は早めに交替をしますね。僕らは『肩を叩く』と言って、肩を叩かれたら交替の合図になるのですが、それがとても難しいんですよ。
うまくいかなかったら、将棋倒しのように転んでしまうこともあり、大怪我をする可能性もあります。そういった事故を防ぐためにも、うちの会では3月から新人の輿丁は徹底的に練習をやるんです」
また輿丁が着ている白い法被は、死装束という意味を持ち合わせていると山田さんは語ります。
「実際には、そんなことがないように気をつけていますが、輿丁の多くが、お神輿でなら死んでもいい、という覚悟を持ってやっています。
引退したあとでも、亡くなった時にお神輿の法被を棺に入れるのが輿丁の習わしです」
にこやかな笑みを浮かべていた山田さんの表情が「覚悟」という言葉を放つと一転して、厳しいものに変わりました。
「生半可な気持ちでは担げませんね。みなさん、同じ想いで担がれているのでしょうか」と尋ねてみました。
「みこし会に入る経緯や動機は、人によっていろいろあると思います。
私は親からの教え、つまり覚悟を受け継いでご奉仕しているつもりです。
ちなみに、入会希望者の面接を私がする場合は『祇園祭と神輿の関係』を質問し、答えられない人には入会をお断りしています。
祭と神輿の意味を知らずに担ぐことはできないと思っているからです」
【祇園祭のクライマックス】山鉾巡行だけでは終われない。祭の真髄“神輿渡御“ – 京都観光Naviぷらす (kyoto.travel)
錦神輿会
八角形の神輿、西御座
屋根に鳳凰をのせた八角形の神輿に御神霊を移し、氏子町内を巡幸して7月17日夜に四条寺町の御旅所へお迎えし、24日に御本社へお帰りいただきます。
八坂神社の本殿西側にお祀りすることから、この神輿を西御座(にしござ)とお呼びします。
この神輿がいつごろ現在のような姿で渡御するようになったのかは不明ですが、「毎年7月、八坂神社祭礼には此処(三条台村)の住民より神輿をかつぐ與丁を出す。元禄以来今に変わることなし」という記録があります、「三条台村」とは二条城の周辺にあった村落で、この住民が神輿渡御に奉仕していたと思われます。
錦神輿会の結成
大正13年ころからは三条台村に代わり、壬生村の農家が「壬生組」と称して神輿渡御に奉仕するようになりました。
この壬生組も第二次世界大戦後に解散。八坂神社からの依頼によって、昭和22年からは錦組(現・錦神輿会)を結成し、私たちが担当するようになりました。