御旅所
八坂神社御旅所
八坂神社御旅所には祇園祭の神幸祭(7月17日)から還幸祭(7月24日)まで期間、中御座神輿(なかござみこし)・東御座神輿(ひがしござみこし)・西御座神輿(にしござみこし)の3基の神輿が奉安されます。
【八坂神社御旅所 アクセス・マップ】
場所・・・京都府京都市下京区四条通寺町東入南側貞安前之町
最寄り駅・バス停・・・四条河原町(徒歩約3分)
【八坂神社御旅所 歴史・簡単概要】
八坂神社御旅所(やさかじんじゃおたびしょ)・四条御旅所(しじょうおたびしょ)・祇園御旅所(ぎおんおたびしょ)は祇園祭の際に3基の神輿を神幸祭(しんこうさい・おいで)から還幸祭(かんこうさい・おかえり)までの期間一時的に奉安する場所です。
八坂神社御旅所は桃山時代の1591年(天正19年)関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が大政所御旅所(おおまんどころおたびしょ)と少将井御旅所(しょうしょういおたびしょ)を統合し、現在の場所に移しました。
なお八坂神社御旅所(Otabi Kyoto)では祇園祭の期間以外は普段お土産などを販売しています。
大政所御旅所はかつて大政所神輿(素戔嗚尊・すさのをのみこと)・八王子神輿(素戔嗚尊の8人の子供・八柱御子神(やはしらのみこがみ))を奉安する場所でした。現在は小祠が建てられています。
少将井御旅所は少将井神輿(素戔嗚尊の妻・櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと))を奉安する場所でした。
現在は小祠が京都御苑内にある宗像神社(むなかたじんじゃ)の境内に移されました。
大政所御旅所
祇園会(ぎおんえ)の神輿(みこし)三基のうち、素盞嗚尊(すさのおのみこと)(牛頭(ごず)天王)と八王子との二基を大政所とよび、妃神奇稲田(くしなだ)姫の一基を少将井とよんだ。
江戸時代にはこの大政所の神輿は八坂神社を出て四条通を経て神泉苑に入った。
この御旅所は円融天皇の時代に秦助正という人が夢に八坂大神の神幸を見、また自宅の庭から八坂神社まで蜘蛛(くも)が糸を引いているのを見て朝廷にこのことを奏上した結果、助正の家が御旅所となり、その後大政所といわれるようになったという。
後奈良天皇の天文5年(1536)に騒乱のため焼失し、天正19年(1591)豊臣秀吉の命により四条寺町に御旅所が移されたが、そのあとに町の人々が小祠を建て、八坂大神を奉祀し、大政所町鎮護の社として毎年7月16日を例祭日と定めた。
下京区烏丸仏光寺下る東側大政所町
大政所御旅所
祇園会(ぎおんえ)の神輿(みこし)三基のうち、素盞嗚尊(すさのおのみこと)(牛頭(ごず)天王)と八王子との二基を大政所とよび、妃神奇稲田(くしなだ)姫の一基を少将井とよんだ。
江戸時代にはこの大政所の神輿は八坂神社を出て四条通を経て神泉苑に入った。
この御旅所は円融天皇の時代に秦助正という人が夢に八坂大神の神幸を見、また自宅の庭から八坂神社まで蜘蛛(くも)が糸を引いているのを見て朝廷にこのことを奏上した結果、助正の家が御旅所となり、その後大政所といわれるようになったという。
後奈良天皇の天文5年(1536)に騒乱のため焼失し、天正19年(1591)豊臣秀吉の命により四条寺町に御旅所が移されたが、そのあとに町の人々が小祠を建て、八坂大神を奉祀し、大政所町鎮護の社として毎年7月16日を例祭日と定めた。
下京区烏丸仏光寺下る東側大政所町
八坂神社のかつての御旅所で神輿の渡御があった。
現在は小祠が建っているのみ。
天延2年(974)に東洞院高辻に住していた秦助正の夢に神人が現れ、「汝の家を影向の地とせん速やかに朝廷に奏上せよ」との宣託があり、翌朝庭の塚から蜘蛛の糸が祇園社までつづいていたので、このことを朝廷に奏上した。
時の円融天皇も同じ夢を見ておられ、助正の宅を御旅所とし、東洞院方四町を御旅所の敷地として寄付せられ、大政所といって神殿を造られた。
のち天正19年(1591)に豊臣秀吉の命により、ただいまの四条京極の地に御旅所は移転した。
桃山時代作の祇園社大政所絵図に、在りし日のにぎやかな様子が描かれている。
少将井御旅所
「少将井御旅所」には「櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと)」がのる「東御座(ひがしござ)」の神輿が安置されていました。
ここが御旅所になる前から「少将井」は存在し、10世紀以降京都では疫病流行の時、ある特定の井戸の水を飲むと疫病を免れるという「霊泉・霊水信仰」が定着しており、「少将井」も霊水として信仰されてきました。
「少将井跡」の説明書きです。
少将井跡
少将井は平安京の各所にあった名水の一つで、「枕草子」にも名井として挙げられている。
所在地は京都市中京区烏丸通竹屋町下ル少将井町付近とされる。
名前の由来はさだかでないが、歌人の少将井の尼が住んだためとの説もある。
平安時代以降、祇園社(八坂神社)の御旅所があり、現在の祇園祭にあたる祇園会御霊会で神輿が巡航した。疫病を免れるための霊水信仰に基づくとされ、神輿は井桁の石に安置したという。
祇園社の御旅所は桃山時代ごろ、四条新京極に統合された。少将井にはその後も社が置かれていたが、上京区・京都御苑内にある宗像神社の社殿によると、明治十年(一八七七年)、同神社に移された。昭和四十七年(一九七二年)、京都新聞社が平安博物館(現・京都文化博物館)に依頼して発掘調査を実施した。平安時代の泉水は確認できなかったが、鎌倉時代から近代までの井戸跡が数大く見つかり、この地が良い水の恵まれ地域住民が利用していたことがあらためて確かめられた。
京都新聞社
【祇園祭と少将井御旅所(しょうしょういおたびしょ)】
祇園祭ではかつて大政所神輿(おおまんどころみこし)・八王子神輿(はちおうじみこし)の2基が大政所御旅所(おおまんどころおたびしょ)、少将井神輿(しょうしょういみこし)の1基が少将井御旅所(しょうしょういおたびしょ)と八坂神社の間を渡御していました。
八坂神社の祭神・頗梨采女(はりさいにょ)を乗せた少将井神輿は6月7日の神幸祭(しんこうさい・神輿迎え)で四条通(しじょうどおり)を西に向かい、東洞院通(ひがしのとういんどおり)を北上し、少将井御旅所に泰安されました。
その後6月14日の還幸祭(かんこうさい・祇園会)で少将井御旅所から二条通(にじょうどおり)を西に向かい、大宮通(おおみやどおり)を南下し、三条通(さんじょうどおり)を東に向かい、八坂神社に戻ります。
北朝方の官人・中原師守(なかはらのもろもり)が記した「師守記(もろもりき)」1364年(正平19年・貞治3年)6月7日の条に少将井の神人(じにん)らと武家小舎人の雑色(ぞうしき)との間に喧嘩が起こり、「神人一人殺害」・「神輿付血」と記され、当時の神輿渡御の一端を知ることができます。
少将井御旅所は冷泉東洞院(京都市中京区車屋町通夷川上ル少将井御旅町)にあったと言われています。
少将井御旅所は「社家条々記録」によると平安時代後期の1136年(保延2年)に冷泉東洞院の方四町の敷地が寄付されて成立されたと言われています。
1117年(永久5年)には既に祇園別宮があったとも言われています。
ちなみに大政所御旅所は少将井御旅所に先駆け、平安時代中期の974年(天延2年)に成立し、祇園祭で神輿渡御が始まったとも言われています。
少将井御旅所では室町時代の神道家・卜部兼邦の「兼邦百首歌抄(兼邦百首)」によると少将井神輿を少将井の井桁の上に安置し、疫病の流行を防いだとも言われています。
ただ「兼邦百首歌抄(兼邦百首)」では八王子神輿とされています。
少将井御旅所は桃山時代の1591年(天正19年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が大政所御旅所と統合し、四条御旅所(祇園御旅所)に移しました。
四条御旅所では少将井御旅所が南御旅所として、江戸時代に因幡堂薬王院(後にち大和家)が宮守として奉仕しました。
少将井御旅所跡には天王社が建立されたが、1877年(明治10年)に京都御苑の宗像神社(むなかたじんじゃ)に遷されました。
宗像神社は社伝によると795年(延暦14年)に公卿・藤原冬嗣が第50代・桓武天皇の勅命により、皇居鎮護の神として筑前宗像神を勧請し、冬嗣邸・小一条院に祀ったのが起源と言われています。
応仁の乱で焼失し、その後再建されました。
安政年間に現在の社殿が建立されたが、1869年(明治2年)の東京遷都によって社殿のみが残されました。
なお宗像神社では還幸祭・山鉾巡行(後祭)が行われる7月24日に八坂神社の神職が神饌を供え、祇園祭の斎行を報告しています。
【少将井 祇園祭】
少将井御旅所が建立されていた場所には少将井(しょうしょうのい・しょうしょうい)がありました。少
将井は「後拾遺和歌集」に入首した歌人・少将井尼(しょうしょうのいのあま)の居宅にあったとも言われ、名称の由来にもなっています。
少将井は清少納言(せいしょうなごん)の「枕草子(まくらのそうし)」168段に「井は、ほりかねの井。走り井は逢坂なるがをかしき。山の井、さしも浅きためしになりはじめけむ。飛鳥井「みもひも寒し」とほめたるこそをかしけれ。玉の井、少将ノ井、櫻井、后町の井。千貫の井。」と記され、平安京の名井に数えられました。
なお1972年(昭和47年)に京都新聞社が平安博物館(京都文化博物館)に依頼して発掘調査を行ないました。
平安時代の泉水は確認できなかったが、鎌倉時代から近代までの井戸跡が多数見つかりました。