郭巨山

形式:舁山

巡行順番:6番目 山四番(令和5年)

稚児:―

御神体:郭巨・童子(大人形:郭巨殿、小人形:御童子)

主管:郭巨山保存会

住所:京都市下京区四条通り西洞院東入る郭巨山町

公式サイト:祇園祭 郭巨山公式サイト「世界遺産 京都の日本三大祭」 (kakkyo-yama.org)

中国の史話二十四孝の一人郭巨釜掘りの故事にちなんで造られ「釜掘り山」ともいわれる。

山に飾る御神体(人形)の郭巨と童子は寛政元年(1789)金勝亭九右衛門利恭の作で前懸は天明5年(1785)製の唐美人遊楽図の絽刺、胴懸は石田幽汀(1721~86)の下絵による呉道子描龍図と陳平飼虎図の刺繍で天明5年松屋源兵衛の作、見送は文化12年(1815)製で円山応震(1790~1838)の下絵による山水仙人図であったが、昭和58年から新しく上村松篁原画による秋草図前懸、花の汀図および春雪図胴懸、都の春図見送の綴織を順次新調した。

後懸は阿国歌舞伎図綴織と古後懸に天明5年改修の黒ビロード地福禄寿図刺繍がある。

この山に限って桐桜菊の欄縁の下に金地彩色宝相華文様の乳隠しが用いられ、また屋根覆いをかけている。

郭巨山 | 山鉾について | 公益財団法人祇園祭山鉾連合会 (gionmatsuri.or.jp)

公式サイトより

郭巨山・郭巨釜掘りのお話

郭巨山は、京都祇園祭34基の山鉾の一つで、中国史話「二十四孝」の一人『郭巨釜掘り』の故事にちなんで造られているので、昭和初期まで『釜掘り山』とも呼ばれていました。

物 語
後漢の人郭巨は貧困のため老母と三歳になる男子を養えなくなり、悩んだ郭巨は遂に「家貧乏にして児を養育する事難し、是を育てんと欲すれば老親への孝の妨となる。又、老母が食を割いて孫に給与せらるる事も孝のさまたげとなる。故に今、汝と共に子を捨て、母を養わん。児は再び有るべし、母は再び得べからず。」と決心を妻に告白しました。

郭巨山では“黄金一釜”を金の釜で表現し、山洞に乗せています
夫の悩む姿を見続けていた妻もその言葉に服したので、郭巨は児を埋めるべく地を掘り始めました。郭巨が鍬を振り降ろすと地中より黄金一釜(釜は当時の体積単位で六斗四升。五升の説もあります)が出てきました。一札あって「天賜孝子郭巨、官不得奪、人不得取※」と記され、母には孝養を尽くし、子を養えたというお話です。
※孝行な郭巨に天からこれを与える 他人は盗ってはいけない という意味

原文
漢。郭巨家貧。有子三歳。母嘗減食與之。巨謂妻曰。貧乏不能供母。子又分父母之食。盍埋此子。及掘坑三尺。得黄金一釜。上云官不得取。民不得奪。有詩為頌。詩曰 郭巨思供親。埋兒為母存。黄金天所賜。光彩照寒門。

中国二十四孝
鎌倉時代から室町時代にかけて下京の町衆は二十四孝などの中国故事、能、狂言、謡、神話などを教養として嗜み、山や鉾の趣向に取り入れたようです。「二十四孝」は中国古来の代表的孝子24人の逸話を集めたもので、一般に親に対する子の一方的献身を説き、郭巨の他には、親の喜びのために七十歳になっても赤子のまねをする周の老菜子、親の食欲のために厳冬に筍を捜して泣く晋の孟宗、氷上に寝て鯉をとろうとする晋の王祥などがあります。写真は『女大学』という書籍で江戸時代に武家に嫁ぐ女性のために作られた教養書です。この中にも郭巨釜掘りのお話が出てきます。

郭巨山の特徴

その1「日覆い屋根」
他の山では御人形の日除けに朱傘を用いていますが郭巨山では文政三年(1820)より紺地に神紋の日覆い屋根を用い、このため遠目にも郭巨山と判ります。

その2「乳隠し(ちかくし)」
乳(ちち)とは胴掛を吊すための小裂れで、それが目障りなので乳を隠すための飾り板を「乳隠し」といいます。

乳隠しが進化したものが欄縁ですが郭巨山では重複して取り付けられ、金地彩色法相華文様の麗しい板絵の乳隠しと山鉾屈指の桐、桜、菊の細密な厚肉透彫りの欄縁が互いに引き立てあっています。

郭巨山の特徴 – 祇園祭 郭巨山公式サイト「世界遺産 京都の日本三大祭」 (kakkyo-yama.org)

 

織や染作品だけでなく、金属工芸の美しさも見どころのひとつ。

山や鉾の屋台上部を彩る欄縁(らんぶち)。各々の町内の趣向を凝らした金属の細工が見られます。

郭巨山は7月13日の山建てから宵山の間は、瓜を象った欄縁を設置しますが、巡行当日の朝、桐や桜、菊の草花がびっしりと施された豪華な欄縁に付け替えられます。

また、郭巨山だけに残る装飾で、欄縁の下に付けられている美しい模様が描かれた薄い板、乳隠し(ちかくし)があります。

「乳」とは、胴掛などを吊るすための穴のことを差し、乳隠しの裏にある金具に一旦吊るし、それを屋台の手摺りにかけて欄縁を乗せます。現在、他の山鉾は直接欄縁に胴掛を吊されています。

この装飾があることと、山の由来となった「親孝行、子育て」から、昔から「お乳のお守」の授与をされています。

粉ミルクのない時代に、母乳の出具合は赤ちゃんにとって命に関わること。

また、近年では胸の患いの平癒お守りとしてお求めになる方もいらっしゃるそうです。

祇園祭 郭巨山をすみずみまで見る!「京都で伝活!~私たち伝統産業を愛する活動はじめました~」 | Kyoto love Kyoto. 伝えたい京都、知りたい京都。

その他のトピックス

会所が新装になったばかり。

舁山として一番遅く(1965年)まで舁きで巡行していた。