綾傘鉾

形式:笠鉾

巡行順番:15番目 傘二番(令和5年)

稚児:―

御神体:金鶏

主管:綾傘鉾保存会

住所:京都市下京区綾小路通室町西入

公式サイト:綾傘鉾 -綾傘鉾保存会- (ayakasahoko.or.jp)

綾傘鉾は、山鉾の非常に古い形態を残している傘鉾の一つで、大きな傘と棒振り囃子の行列として巡行していた。

この綾傘鉾も、江戸時代の天保5年(1834)、一時小型の鉾に改造されるが、元治元年の大火で、その大部分を焼失することになる。

その後、明治12年から17年まで原型の徒歩ばやしの形で巡行したことがある。

棒振り囃子は、赤熊をかぶり、棒をもった者が、鉦、太鼓、笛に合わせて踊るもので、壬生村の人々により奉仕されていた。

この綾傘鉾も町内の人々の努力が実り、昭和54年から巡行することになった。

なお、傘につける垂りは人間国宝の染織家森口華弘の友禅「四季の花」と平成4年に町在有志の寄贈になる綴錦「飛天の図」がある。

綾傘鉾 | 山鉾について | 公益財団法人祇園祭山鉾連合会 (gionmatsuri.or.jp)

公式サイトより

綾傘鉾は、現在の三十三基ある山鉾の中でも大変珍しい「傘鉾」の形態をとる鉾です。

傘鉾は剣鉾や鎌鉾などとともに、今日の山鉾の形態が完成する以前の古い形であり、 京都市北区今宮神社のやすらい花の花傘に代表されるような、 いわゆる風流(ふりゆう)と呼ばれる作り物や芸能のもっとも基本的な形態を今に伝えるものだといわれています。

応仁の乱以前の15世紀前半の記録にも綾傘鉾が登場することから、 550年以上前から存在した古い鉾であることがわかります。

祇園祭を中心とした、山車研究では第一人者である植木行宣氏は、 著書の中で「囃すものと囃されるもの」という表現を用い、祇園祭山鉾の特質について述べています。

それによれば、山鉾の基層には「風流拍子物」の特質が流れているといいます。

すなわち「風流拍子物」は神霊の送迎、特に疫神や災いなどの退散を願う「ハヤス」という行為から出た群集の踊りが基本であり、 芸能としての特質は、太鼓などの打ち物系の楽器(打楽器)を踊り子が自ら打ち踊り、そして移動するところにあります。

「風流拍子物」は鉾や傘、作り山や仮装の者たちが主体となり、それらは拍子に囃されて移動することを特質としました。

囃される傘や山は神霊の依り付く「座(くら)」であり、神霊の動座を現したものです。

このように、山鉾の原初形態の一つである「傘鉾」は、まさに囃されて移動する神霊の動座そのものであり、 そこには「棒振り囃子」に代表される、派手な囃子を伴っていることが必要だったのです。

室町時代の記録に登場する山鉾の中で、「綾傘鉾」や「四条傘鉾」はともに「はやし物」と表現されています。

極言すれば「傘鉾」はそれだけで存在しても意味はなく、 また「棒振り囃し」もそのものだけでは意味を持たないということもできます。

両者がそろい、それらが移動してはじめて意味を持つ「風流拍子物」になったのです。

綾傘鉾には、二基の鉾が存在します。傘部は直径2.6mの緋綾の天蓋となっており、頂には一基に御神体とする木彫りの金鶏象(右足に鶏卵をつかんでいる金鶏)と、二基には松の木がそれぞれ飾られます。次はそれぞれに着けられる「垂り(さがり)」について紹介します。

綾傘鉾には、2基の鉾が存在します。傘部は直径2.6mの緋綾の天蓋となっており、頂には1基に御神体とする木彫りの鶏と2基には松の木がそれぞれ飾られます。

次はそれぞれに着けられる垂がりについて簡単ながらご説明をいたします。

第1基

第1基とは巡行の際の前側の鉾です。この鉾の懸装品「垂り」は、平成6年(1994)に製作されました。祭りの期間中は善長寺町の大原神社内に展示されており、その美しさや精巧さが細部までじっくりと御覧いただけます。

この垂りは、元々当町内に住んでおられた梶居家(梶居藤次郎さま・龍助さま・よしさま)より寄贈されました綴織「飛天の図」です。

この飛天の図の元は、「ひのやくし」の通称で知られる法界寺の阿弥陀堂内陣壁画の飛天です。

また、鉾の胴体の欄縁や金具は、平成6年の建都千二百年記念として京都文化博物館で開催された、祇園祭展の出展の際に新調されたものです。

第2基

第1基の後ろに巡行する鉾で、懸装品が製作されたのは昭和48年(1973)です。

この鉾は巡行に復活した当初から使われている鉾です。

この鉾の懸装品「垂り」は、人間国宝の染色家・森口華弘さん寄贈の友禅染「四季の花」です。

もう一組の垂り

昭和54年の巡行復活時から、綾傘鉾は2基の傘鉾を出していました。

綴織「飛天の図」の寄贈以前に使われていたもう一組の垂りが存在します。

現在、綾傘鉾の会所がある大原神社内で会所飾りとして展示され、残念ながら山鉾巡行では使われなくなりました。

この垂りは、西陣織物工業組合さまにお願いして西陣の織屋さん28軒によって共同製作していただきました。

元治の大火で焼失した、曳鉾時代の鉾を模して、1887(明治20)年に作られた模型である。

特長であったアジロ製の屋根の形、稚児が乗っていた往時の姿を伝えている。

その他のトピックス

綾傘鉾は今宮のやすらい祭の花傘と似た形式で、平安時代の傘鉾の姿を残すものである。

天保5年(1834)、一時小型の鉾に改造されて巡行に参加したことがあるが、本来は大きな傘を中心とした棒振り囃子の行列である。

明治12年から5年間徒歩形式で巡行したが、その後途絶えていた。

昭和48年頃から復興の機運が高まり、町内の人々の努力と壬生六斎(みぶろくさい)会の支援で54年に復興した。

山鉾の非常に古い形態を残す傘鉾の1つで、大きな2つの傘と棒振り囃子が特徴です。

6人の公家風装束をまとった稚児も連れ添って巡行に参加します。

鉾は他とは違って、台車の上に傘が載った形をしています。

棒振り囃子は、赤熊(しゃぐま)をかぶり棒を持った者が鉦(かね)、太鼓、笛に合わせて踊り、祇園囃子より大きな響きでテンポが早く小気味よいものです。

京都市下京区役所:山鉾の魅力細見・山鉾由来記 (kyoto.lg.jp)