月鉾
形式:鉾
巡行順番:17番目 鉾三番(令和5年)
稚児:「於菟麿(おとまろ)」人形
御神体:―
主管:月鉾保存会
住所:京都市下京区四条通新町東入月鉾町57番地
鉾頭に新月型(みかづき)をつけているので、この名で呼ばれる。
真木のなかほどの「天王座」には月読尊(つくよみのみこと)を祀る。
古い鉾頭と天王の持つ櫂には「元亀4年(1573)6月吉日大錺屋勘右衛門」の刻銘がある。
また正徳4年(1714)の鉾頭もあるが昭和56年から田辺勇蔵氏寄進の18金製の鉾頭にかえている。
屋根裏の金地彩色草花図は天明4年(1784)円山応挙(1733~95)の筆。天井の金地著彩源氏五十四帖扇面散図は天保6年(1835)に町内の住人岩城九右衛門の筆。
破風蟇股の彫刻は左甚五郎の作と伝えられる立派なものである。
軒桁貝尽しの錺金具は松村景文(1779~1843)の下絵、四本柱の錺金具、破風飾の金具などはいずれも華麗なもので山鉾のなかでも最高のものである。
天水引の霊獣図刺繍は天保6年(1835)円山応震の下絵である。
前懸、後懸は華麗なインド絨毯、胴懸はインドやトルコの絨毯を用いており、北面の「中東蓮花葉文様」は平成22年(2010)に、南面の「幾何菱文様」は平成23年(2011)に復元新調された。
近年下水引は皆川月華作の花鳥図に、見送も同作の湖畔黎明図にかえている。
また、平成12年(2000)には前懸のインド絨毯も復元された。
公式サイトより
月鉾の由来
月鉾は文献によりますと、応仁の乱以前よりあり、その昔は「かつら男ほく(ほこ)」と呼ばれていました。
鉾頭に“新月”をいただき、天王座には“月読尊”を祀っていることから、その後“月鉾”と呼ばれるようになりました。
月鉾の歴史
月鉾は、山鉾33基の中でも最も大きく重い鉾です。そして、鉾を飾る装飾も細部に至るまで素晴らしく、動く美術館と讃えられています。
「古事記」によれば、伊奘諾尊が黄泉の国から戻り、禊祓いをされたとき、左眼を洗って天照大神、右眼を洗って月読尊を、こののち鼻を洗って素戔嗚尊を生んだとされました。
この時より月読尊は夜を支配する神となりましたが、水徳の神でもあることから、月鉾には、月や水に関連する装飾品が多くみられます。
鉾頭には18金の三日月。鉾の屋根鬼板部分には三本足の烏(ヤタガラス:神話では太陽の使いとされている)、屋根下の破風部分は時計草などの細密な金具彫刻で覆われ、破風中央下には、左甚五郎作といわれる“うさぎ”の彫り物があります。
屋根裏には、江戸中期を代表する画家、円山応挙作の“金地彩色草花図”。天井裏には、岩城清右衛門作“源氏物語五十四帖扇面散図”。
前掛けは、17世紀インドムガール王朝時代の「メダリオン緞通」、見送りは皆川月華作“黎明図”、また天水引には、円山応震下絵の“霊獣図刺繍”等々、見ごたえのある装飾品で飾られています。
その他のトピックス
真木の中ほどの『天王座』には月読尊を祀る。
像は右手に櫂を持ち、月を仰ぐ姿で船に乗っている。
月読尊は古事記によると伊弉諾尊の右眼から生まれ、夜の国の支配者になった方。
天明の火事では町は焼けたが、人々の努力で鉾は無事だった。
また、元治元年に鉄砲焼けの戦火に見舞われたが、月鉾は真木1本失っただけで、屋根裏絵画など優れた工芸装飾品が数多く今に残っている。
古い鉾頭と天王のもつ櫂には「元亀4年大錺屋勘右衛門」の刻銘がある。昭和56年から18金製の鉾頭を用いている。
鉾頭に三日月をつけているのでこの名で呼ばれています。
装飾が細部にいたるまで素晴らしく、動く美術館と讃えられています。
文化文政(江戸後期)の美術爛熟期に工芸装飾の充実に力を注ぎ、当代随一の名工の力を得た飾金具類は圧巻です。
また、左甚五郎作と伝えられる彫刻、円山応挙の屋根裏絵画、天井の源氏五十四帖扇面散図などその華麗さ豪華さは山鉾の中でも屈指のものです。
祇園祭では始めて山鉾の重量が測られた。
一番重いのが「月鉾」で11.88トン、最も軽いのが「綾傘鉾」の0.36トンとなった。見た目で重そうな山や鉾は、やはり重く10番目の「岩戸山」で8.2トンとなっている。
かつては担いでいた「かき山」はその殆どが1トンに満たない重さで、唯一「蟷螂山」が1.22トンであった。
表中の重さは、人や装飾品などの重さを含む、巡行中の重量である。
月鉾の高さは約26m。