船鉾
形式:鉾
巡行順番:23番目 くじ取らず
稚児:-
御神体:神功皇后、住吉明神、鹿島明神、龍神・安曇磯良(あずみのいそら)
主管:船鉾保存会
住所:京都市下京区新町通綾小路下
神功皇后をめぐる説話によって鉾全体を船の型にし、舳先には金色の鷁、艫には黒漆塗螺鈿の飛龍文様の舵をつけ、船端には朱漆塗の高欄をめぐらし、唐破風入母屋造りの屋根からは紅白の長旒・吹流しをひるがえす。
鉾の上には皇后と陪従する磯良・住吉・鹿島の三神像を安置する。
主神神功皇后は神面をつけ緋縅の軍装、その後に鹿島明神、舳先には、海神安曇磯良が龍宮の満干珠を住吉明神に捧げている。皇后の神面(文安年間作、1444~1448)は古来安産に奇瑞があるといわれ、宮中でも尊敬され、明治天皇の御降誕の時には宮中へ参内している。
皇后の神像は岩田帯をたくさん巻いて巡行するが、それを祭りの後、妊婦に授与され安産のお守りとされている。
また、神功皇后衣裳の水干「金地菊花文様唐織」と大口袴「白地御簾文様金襴」は平成22年(2010)に新調された。
鷁は宝暦年間(1751~64)長谷川若狭の作で、船尾の舵は寛政4年(1792)に造られた。
水引の雲龍図肉入刺繍の下絵は西村楠亭(1775~1834)の筆、鹿島明神の持つ長刀は、井上和泉守真海(寛文年間1661~1672)作の逸品である。
また平成21年(2009)に高欄下水引が新調された。
公式サイトより
船鉾の名の古文書に初めての登場は、応仁の乱の前、室町時代の中頃の文書、祇園社(いまの八坂神社)に伝わる「祇園社記」(第十五、御霊会山鉾記)の記事で、「神功皇后の舟」と記されています。
この頃、すでにこの名の鉾が二基あり、その一つが前祭の殿を飾る「出陣の鉾」といわれる現在の船鉾であり、もう一基は元治元年(1864)に焼失し平成二十四年に百四十年ぶりに巡行に復帰した後祭の殿を飾る「凱旋の鉾」でありました。
その後も、祇園祭全体も幾多の変遷を辿ってまいりましたが、現在ある三十三基の山鉾のなかでも、この鉾は船の形をした美しい鉾であることから、多くの人々を魅了し、人気を集めるようになりました。
もともと、日本は島国で外国との交易には、遣唐使船、天竜寺船、遣明船などの大型船が活躍した歴史がありますが、船鉾のモデルとなった船は「安宅船」と呼ばれる中規模の軍船とされています。
しかし、祇園祭を楽しく盛大に執行したいとする京の町衆にとって、戦争を好む筈はなく、ご神体の神功皇后の説話を題材に、趣向をめぐらし贅を尽くし、より豪華に、より華やかにと、あたかも他の山鉾と妍を競うような華麗な船鉾に造りあげました。
このように、祇園祭も、そして船鉾も、ながい歴史と時代の移り変わりを経てきたのですが、祇園祭を受け継ぎ、発展させてきた京都の人々の誇りと心意気をお汲みとりいただきたいと存じます。
- 重量8.41トン(巡行時。人、懸装品含む) 5.99トン(山鉾装飾のみの重量)
- 高さ/地上から屋根まで約6.7メートル
- 車輪/直径約2メートル
- 鉾床面積/約6畳
- 車方、大工方、音頭取/約50人
- 曳子(曳綱で鉾を曳く人)/約40人
- 囃子方/約50人
御神体
神功皇后
神功皇后は第十四代仲哀天皇の后であります。
外征の会議中に天皇が急死された為、皇后は後に応神天皇となられる皇子を妊(みごも)り既に産み月であったにもかかわらず、凱旋するまで産まないことを誓って喪を秘し、男装して出征されました。
事凱旋の後、筑紫へ戻ってようやくお産をされました。この故をもって神功皇后は安産の神として信仰されるようになりました。
古来安産に奇瑞(きずい)があるといわれる皇后の神面は宮中でも尊敬され、明治天皇の御誕生の時には宮中へ参内しています。
七月一七日の山鉾巡行時には皇后のご神体に、妊婦さんから申込のあった御腹帯をたくさん巻いて巡行し、それを祭りの後、妊婦さんに安産の御守りとして授与しています。
また、長年着用していたご神体の裂を安産の御守りとして授与しています。
住吉明神
神功皇后を助ける副将。
神功皇后の長征に際し、住吉明神は福岡の住吉に出現し給い、その和魂(にぎみたま)は皇后を守護し、荒魂(あらたま)は先鋒を導き給うたとされる。
海上安全往来守護の神として崇められている。
鹿島明神
船鉾の舵取り役。
鹿島明神は知勇兼備の神様です。
船鉾の鹿島明神は、神功皇后の真後ろに立たれます。
黒髪を長く数束に分けて垂れ、黒の立烏帽子に白く鉢巻を締め、端正で威厳のある鬚髯(ほほひげあごひげ)の武人で、紺地金襴万字崩し獣文の大袖、白綾大口袴、紺糸縅の鎧という地味な着付けは、住吉明神と対照的です。
右手には津軽塗の軍配、左手には長刀を持っています。この長刀には寛文四年(1664)の作で、摂津の井上和泉守真海の銘が見えます。
龍神・安曇磯良
船鉾の水先案内人。
手に持つ朱塗りの台に潮満瓊・潮干瓊の宝珠をのせて捧持している。
この玉は俗に満珠干珠といい、これを海に浸す事により海流を自由に出来るという海神の宝器である。
これを用いて皇后の長征を安全に導いたとされます
マンガ「船鉾の秘密」
(クリックでpdfが開きます)
祇園祭 船鉾のご神体に取り付ける「神面改め」 #京都NEWSWEB https://t.co/TLEpbrzUld
— NHK京都 (@nhk_kyoto) July 3, 2023
その他のトピックス
船鉾は応仁の乱以前より2基あり、この鉾は先祭(さきのまつり)のトリをつとめた『出陣の船鉾』といい、元治元年(1864)に焼けて現在焼山になっている後祭『凱旋船鉾』と区別している。
古事記や日本書記に書かれた神功(じんぐう)皇后が妊娠中にもかかわらず、皇子が凱旋まで産まれぬように祈願して、男装で海戦して勝利し、皇子をお産みになったという神話によって鉾全体を船の形にしている。
皇后の御神体は安産の神とされ、岩田帯を巻いて巡行し、巡行の後で妊婦に授与される。
「ふなぼこ」ではなく「ふねぼこ」と呼びます。
神功皇后をめぐる説話により鉾全体を船の型にしています。
宝暦年間(江戸中期)の傑作とされる「鷁(げき)」が船首を飾り、舵は豪華な黒漆塗青貝螺鈿細工でできています。
船の上には様式美に富んだ屋根が置かれ、屋根の後の鳥居の帆柱のイメージを残す2本の幟(のぼり)が風にはためく姿は軍船らしく壮大で、かつ秀麗なシルエットを誇っています。