長刀鉾

形式:鉾

巡行順番:くじ取らず 1番目

稚児:生稚児

御神体:―

主管:公益財団法人 長刀鉾保存会

住所:京都市下京区四条通烏丸東入長刀鉾町26番地

公式サイト:https://naginatahoko.jp/

鉾先きに大長刀をつけているのでこの名で呼ばれる。

長刀は疫病邪悪をはらうものとして、もと三条小鍛冶宗近の作が用いられていたが、現在は大永二年(1522)三条長吉作の長刀を保存し、複製品を鉾頭としている。この鉾は古来「くじとらず」といい毎年必ず巡行の先頭にたち、生稚児の乗るのも今ではこの鉾だけである。

真木のなかほどの「天王座」には和泉小次郎親衡の衣裳着の人形を祀っている。

屋根裏の金地著彩百鳥図は松村景文(1779~1843)の筆、破風蟇股の厭舞と小鍛冶宗近が神剣を造る姿の木彫胡粉彩色の彫刻は片岡友輔の作である。

前懸はペルシャ花文様絨毯、ペルシャ絹絨毯(古)、胴懸には中国玉取獅子図絨毯、十華図絨毯、梅樹図絨毯、中東連花葉文様インド絨毯など16世紀~18世紀の稀少な絨毯が用いられていたが、現在はその復元品を使用。見送は雲龍波濤文様綴織が平成17年に復元新調されている。平成20年度に下水引全面の新調が完了した。

長刀鉾 | 山鉾について | 公益財団法人祇園祭山鉾連合会 (gionmatsuri.or.jp)

長刀鉾について (2023/04/12)

「くじ取らず」の鉾として、常に山鉾巡行の先頭を進みます。長刀は疫病邪悪をはらうものとして、鉾先に大長刀をつけているのでこの名で呼ばれます。山鉾の中で唯一生稚児が乗ります。

 

長刀鉾の由来

初めて神泉苑で勅命により御霊会が行われたのは、貞観5年(863)。貞観11年(869)、都に疫病が流行した際、勅命を受けて神泉苑に66本の矛を立て、牛頭天王を祀って諸国の悪霊を祓いました。これが祇園祭の起源とされています。

長刀鉾の誕生には、宝刀「小狐丸」を鍛えたことで知られ、のちに「天下五剣」の一つに数えられる、徳川将軍家伝来の国宝「三日月宗近」の作者として有名になった三条小鍛冶宗近(さんじょうこかじむねちか)に由縁があります。貞観年間、疫病流行の折、宗近が娘の病気平癒祈願のために長刀を鍛え上げ、祇園社(現在の八坂神社)に奉納しました。

嘉禄元年(1225)、祇園社に寄進された長刀を鉾頭に掲げて、長刀鉾が誕生したといわれています。

正治年間(1199-1201)、怪力無双と伝えられる源氏の武将、和泉小次郎親衡(いずみこじろうちかひら)は長大の剣を好み、祇園社に懇望して宗近の長刀を譲り受けますが、その後不吉なことが起こったため、神刀を私有する非を悟り返納しました。長刀鉾の真木に飾られた「天王座」は、この親衡の姿を写しています。小舟を肩に担ぎ、大長刀を持った天王座は小舟を操り長刀を振るって、山河を駆け巡った勇猛果敢な姿を彷彿させます。

返納された長刀は疫病流行のときに町内に貸し出して拝戴(はいたい)の儀を行うと病気が治るとされ、その評判を聞きつけた人々であふれるほどの人気でした。

応仁の乱(1467-1477)の前後祇園祭は休止とされました。
明応9年(1500)、祇園祭が33年ぶりに復興し、山鉾36基が出ました。この時順番を決めるために鬮(くじ)をとることを始めますが、長刀鉾は「鬮とらず」で先頭を行きます。

その他のトピックス

宵山でも女人禁制。

浴衣や扇子にあしらわれている「長」の字は織田信長の書から採られていると言われている。